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私の語学スタイル

第 4 回
「対話すること、交流することが人間らしさ」

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上の部屋に、ダライラマのお兄さんが

 跡取り息子として子どものときからお寺で育った住職が、英語を話すようになったのはインドへ行ったことがきっかけだった。しかし幼少のころから外国への憧れは持っていたという。
 「外国には昔から憧れがあって、とにかく外国に行きたいなという気持ちは子どもの頃からありましたね。そういう気持ちのきっかけだったのかわかりませんけど、私が小学校 1, 2 年生のときに、当時住んでいた築地本願寺の役宅の上に、ダライラマのお兄さんが住んでたの。2 年間、築地本願寺で暮らしていたらしいんですよ。で私の父が言うにはその、タッツェルさんっていうんですけど、彼がよくうちに寄って私を連れて散歩に行ってたって。小学校 1, 2 年のころから、チベット人との交流があったっていうのがね、外国や異文化への関心のきっかけになったかもしれない」

※役宅 お寺の職員のためのアパートのようなもので、お寺の敷地内にある。

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イラストレーター目指してたんです

 「外国に興味はあったけど、中高時代の英語はぜんっぜんだめ。50 点満点でいつも一桁。だからいつも赤点ですよ、要は。英語ってとにかく覚えなきゃだめでしょ、単語を。覚えるのがだめなんだよね。それから高校を卒業すると、私達のようなお寺の跡取りはだいたい京都の龍谷大学にみんな入ってお坊さんになっていくわけですよ。でも高校生のとき、もう、お坊さんになるっていうことが、いやだった。一生、人のお葬式で儀式を行うという、そういう職業は自分の職業としてはいやだなと思ったんですよ」
 そうして住職が選んだ進路は桑沢デザイン研究所夜間部。とても絵が好きだったことと、当時横尾忠則氏などが活躍し始めていたデザインやイラストの世界に憧れて、東京でイラストレーターを目指すことを決意する。
 「その時代は楽しかったですよ。専門学校の夜間に 1 年間、そのうちにセツモードセミナーに入ってそれと並行してバンタンデザイン研究所にも週一回行ってましたね。テレビ局から専門学校にいろいろ依頼がくるんだよね。ザ・スパイダースの歌番組のバックを描いてくれとか、ボディペインティングをやってくれとか。今はもうないけど、原宿のセントラルアパートの一階のブティックの壁画も友人と二人で描いたりして。けっこう華やかな世界でしたね」

※横尾忠則 1960 年代から活躍を続けている世界的なグラフィックデザイナー。

※ザ・スパイダース 堺正章やかまやつひろしなど 7 名のミュージシャンのバンドで 1960 年代に活躍した。

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