この間、カリフォルニアに行って来た。7月26日は父の90歳の誕生日だったので、4年ぶりに故郷パサデナに帰ったのだ。久しぶりに英語で生活することになるので、米語の変化をここで報告するつもりだったが、新しい単語や言い回しには特に気がつかなかったので、報告できる新情報はない。
言葉に直接関係することではないが、米国が移民の国であるという事実に改めて感銘を受けた。ロス国際空港からタクシーに乗ったら、運転手さんは40代の韓国出身の男性だった。若いときに、母国で徴兵されずに米陸軍のほうに入って、冷戦中の西ドイツで数年間、兵隊として勤務したそうだ。その後、米国の国籍を取得して、現在はロスのダウンタウンで家族と一緒に住んでいる。
私が日本に長年住んでいると言ったら、会話がさらに弾み、金曜日の夕方に渋滞していたフリーウェーで、約1時間、いろいろ話した。その運転手さんは日本好きで、2回も家族を連れて観光で来日したことがあるという。「日本人はこころが冷たい」など、時々他のアジア人からも聞くような変なステレオタイプをまだ抱いていたが、「生まれ変わったら日本人になりたい」とも言った。
父の誕生日パーティーでは Tetsuo George Hayakawa という父の友人の隣に座った。Hayakawa さんは米国生まれだが、1942年にパサデナ市立大学で勉強していたときに、日系人だという理由で、アリゾナにあった強制収容所に入れられた。彼も1944年に米軍に入って、戦争終了後、占領軍要員として日本に来たという。その時に、まだ日本軍服を着ていた従兄弟に会ったときの複雑な気持ちなど、いろいろ興味深いことを話してくれた。Hayakawaさんは日本語も話せるが、「明治生まれの母から日本語を覚えたので、古めかしい女性言葉でしか話せない」との理由で、パーティーでは『お父さんの誕生日お祝いを申し上げます』以外は英語のみで話した。
最後の一泊は、ロスから船で約1時間で行けるカタリナ島で過ごした。子供のときによく行ったところなので思い出の多い場所だ。パサデナやロスもそうだが、この観光地でもメキシコなど中南米出身の人が非常に多くなってきた。英語がわからない人も少なくない。私はこれからもずっと日本に住むつもりだが、もし米国へ帰ることになったらすぐスペイン語の勉強を始めたい。
米国滞在中、、Hayakawa さんによるお祝いの言葉以外は、日本語をまったく聞かなかった。不思議な5日間だった。
私は今晩、四国に行く。香川県立観音寺第一高等学校に招かれて、明日、「言葉って、どこが面白いの?」というテーマで講義する。私から一方的に話すのは面白くないので、高校生たちとディスカッションしようと思っている。議題は、次のように予定している。
この間にも書いたが、Oxford English Dictionary によると kamikaze という言葉の英語での初使用例は1945年だそうだ。OED(オンライン版)の例文は次のとおり。
1945 Newsweek 27 Aug. 25 As a British task force was hoisting victory pennants a Kamikaze darted out of the clouds toward the ship.
しかし、1944年12月1日の『英語青年』には、次の Nippon Times 記事が引用されている。
KAMIKAZE UNITS HIT 5 ENEMY WARSHIPS
IN LEYTE GULF AREA
IMPERIAL HEADQUARTERS' COMMUNIQUE, 4 p.m., November 3:—"1. The Special Kamikaze Air Attack Units on November 1 attacked the enemy convoy escort forces that are now penetrating the Gulf of Leyte and sank one cruiser and damaged one battleship, one battleship or cruiser, one cruiser, and one destroyer."
先日、この用例をOEDの編集部に送っておいた。
言葉を病気として考えたら、言語学習がどのように変わるのだろう。
娘たちが3、4歳ぐらいのときに、カリフォルニアに住んでいる、私の姉のところに数日間泊まったことがある。同年齢の従兄弟エリックとよく遊んでいた。娘たちは日本語で、エリックは英語で話していたが、仲良く家の中を走り回ったりかくれんぼしたりしていた。2、3日経ったら、それまで日本語を聞いたことがなかったエリックは、従姉妹が持っているおもちゃを欲しくなったら “Kashite!” と言うようになった。エリックは「貸して」とは日本語だと気が付かなかったようだが、幼稚園児の間で風邪がすぐうつるのと同じように、彼はその言葉に感染したのだ。
横浜・野毛町には、「三陽」というラーメン屋がある。「毛沢東定食」(餃子定食)や「バクダン」(揚げニンニク)などの珍名メニューで地元で少し有名な所でもある。店主は日本人だが、従業員の多くは中国か台湾の出身だ。私は8、9年ぐらい前から月数回のペースで食べに行っているのだが、従業員同士の会話で「言葉の感染症」に気付いたのは最近のことだ。同じものの注文が二つ入ったら「二つ」や「二個」ではなく「ニガ」と言うときがある。本人たちには確認していないが、「ニガ」とは中国語の「二个」(ni ge)に違いない。三陽の日本人従業員同士でも「ニガ」と言っているのだ。同じ職場で働く人たちが同じ「病気」になってしまったようだ。(もちろん、日本国内の店なので、中国人の従業員たちはもっと重く日本語に感染している。)
言語の習得を「教える」や「学ぶ」などのような健全な動詞で描写することが多いが、言葉を病気と同じように人間の意思に関係なく「うつる」ものとして見たら、言語教育はどうなるのだろうか。
It is a strange thing that although there have been written, within the last twenty-five years, more books on education, mental, moral and physical, than perhaps in all the years before, scarcely anything has been written on Conversation as an educational factor. And yet, as the writer proposes to show, no agency is more powerful in the development of the mind, in the gaining of culture, in the formation of character, in the creation of ideas, in the inspiration of literary workers, and in the achieving of professional and social success, than this little-prized intellectual exercise.(妙なことに、この25年の間だけで、以前よりも多くの本が、知的、道徳的、肉体的な教育について執筆されているが、教育の要素としての会話についてはほとんど何も書かれていない。しかし、著者はこれから示そうとしているのだが、知力の発達、教養の習得、人格の形成、アイディアの創出、文筆家の着想、そして仕事や社会的な成功には、会話という軽視されがちな知的活動よりも有効な手段はない。)