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私の語学スタイル

第 2 回
「ネイティブではない先生ができること」

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ネイティブではない先生ができること

 1977年来日当時から今まで、神田外語学院の“熱い”教師であり続けるネーナ先生。英語のネイティブ・スピーカーではないことをずっと背負いながらも、児童英語教育科を設立し、多くの児童英語教師を育ててきた。ネイティブではないということは日本人の英語教師と悩みを共有してきたとも言える。
 「ネイティブではない先生でも誰でもそうだけど、その人にはその人だけにしかない要素がありますよね。人間としてその人だけが提供するもの、つまり自分のいいところ。それでそれにプラス、英語ができるということなんです。それはネイティブの先生にもほかのどの先生にもないものだから、その自分だけのいいところを通して英語を教えればいい。なんでそんな素晴らしい人たちがネイティブ・スピーカーじゃないということだけで悩まなくちゃいけないのって思います」
 あなたにはあなただけにしかない、いいところ、いい要素が絶対にある、それを生かしなさいと正面から言ってくれる先生がどれほどいるだろうか。ネーナ先生の人柄にひかれて、学生達が自然と集まってくるという話もうなずける。
 「私も、どんなにがんばっても英語のネイティブじゃない。そのことで皮肉を言われるようなこともしょっちゅうあった。でも私という人間はネイティブにはないものを持ってる。私は本当に燃えてるから、学生を刺激してやる気を出させることができるし、学生や子どもたちのいいところを発見することもうまくできる。私だからこそできることが、たくさんある。それに気づいたから、もうネイティブではないっていうことで自信を失ったり、悩んだりしないことにしてます」

Style2
異文化との出会いは幼い頃

 セルボ=クロアチア語を母語としつつ、英語教育をしながら、英語と日本語で学位も取得したネーナ先生。ほかにも、簡単な会話ならロシア語、フランス語ができる。英語だけでも大変なのに、どうしてこんなに外国語ができるのか、その理由を探るべく、子ども時代の話を聞いてみた。
 「私はセルビア人なんだけれど、生まれて子ども時代を過ごしたのは今のクロアチアのプーラという港町。その頃はユーゴスラビアという国で、セルボ=クロアチア語を話していたんです。ロシア語の映画をよく見ていたので、ロシア語が好きになって、ああきれいだなあって子どものころから思ってた。その町は第二次世界大戦が終わるまではイタリア領だった所だから、イタリア語もしょっちゅう聞こえていたしね。それから港町だから世界各国から船が来るのね。で、英語は全然知らないんだけど、エジプトの船が来たよーとか、そういうのがあると、Do you speak English? だけ覚えて、それを言うために走って行ったり。とにかくいろんな人がいるんだっていうことは感じていた。決まった時間にテレビでニュースが流れるんだけれど、5 分ごとに旧ユーゴスラビアで使われているいろいろな言語で流れていたのも覚えてます」
 異文化とか国際化という言葉は知らなかったけれど、一つの国なのに、こんなにいろんな違いがあっていいなあという気持ちはずっと持っていたと言う。違うことを楽しむ気持ちを、子どもの頃から身につけられた、この国際的な環境が、数か国語の習得につながった一つの要因なのかもしれない。

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